歴史
概要
- 弘治4年(1558年)
- 千切屋初代である西村与三右衛門貞喜は、三条通室町西入ルに法衣商の店を設け
- 安政元年(1854年)
- ちきりや創業
- 明治43年(1910年)
- 宇治木幡に茶園を開く
- 昭和23年(1948年)
- ちきりや大阪店を梅田に開設
- 昭和26年(1951年)
- 「(株)ちきりや茶店」として設立
- 昭和32年(1957年)
- 株式会社阪神百貨店取引開始(梅田本店にて)
- 昭和39年(1964年)
- 京都生活協同組合取引開始
- 昭和51年(1976年)
- 日本生活協同組合連合会取引開始
- 昭和63年(1988年)
- 静岡工場建設
- 平成13年(2001年)
- 自然農法センターより認定を受け、静岡工場が有機JAS認定工場となる
- 平成18年(2006年)
- 静岡工場がISO9001(品質マネジメントシステム)認証取得
- 平成22年(2010年)
- 「株式会社ちきりや」に社名変更
- 令和04年(2022年)
- ちきりや 阪神梅田本店のショップリニューアル
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由来
「ちきりや」という名は、16世紀、京都の名物商家「千切屋吉右衛門」が、三条室町西側の衣棚町に呉服店(「千吉(ちきち)」)を開いたことに由来しています。
※「千吉」とは千切屋吉右衛門を略した屋号です。
当社のちきりやは、創業安政元年(江戸時代・1854年)、千吉(ちきち)の別家にて、五代・秋山覚兵衛が三条衣棚に店をかまえて、呉服とともに山城宇治銘茶の販売を開始しました。
茶業の成功を受けて、後継者の六代・覚兵衛が、店を茶屋「ちきりや茶店」に変えました。
19世紀の終わりまでに、「ちきりや茶店」は京都の茶会や組合活動において、重要な役割を果たすようになりました。
20世紀初頭には、販売地域を日本全国に広げ、京都の本社ビルからトラックで出荷する光景が日常的に見られるようになりました。
ちきりや茶店の茶園
明治43年(1910年)に宇治木幡に茶園を開きました。茶園は京阪電鉄木幡駅の真南に接しており、玉露や碾茶を主に作っていました。
製茶工場もそこにあり、新茶時期には、たくさんの茶摘み女が茶芽を摘み、蒸気の吹き上げる製茶場で男たちが汗を流して茶を蒸し上げ、揉む作業をしていました。
当時茶業者が自園を持っていたのは3店だけで、とても珍しいものだったようです。しかしながら、第二次大戦後の農地解放でなくなってしまいました。
戦後復興
第二次大戦後、茶園やほとんどの販売網がなくなってましたが、京都で事業を再開しました。そして、関西エリアで再び事業を拡大し、大阪と神戸にフランチャイズショップをオープンしました。
昭和32年(1957年)、「ちきりや」ブランドは大阪の有名な阪神百貨店梅田本店に入店。そして数年後、ちきりやは昭和39年(1964年)に京都をはじめとし、昭和51年(1976年)に日本生活協同組合連合会との取引を開始し、全国のスーパーマーケットでの販売に成功した。
この成功がもたらした大きな需要に対応するため、昭和63年(1988年)に自社工場を設立しました。この工場は平成13年(2001年)に有機JAS認定を受け、平成18年(2006年)にはISO9001(品質マネジメントシステム)を取得し、すべての自社製緑茶の最高品質を保証しています。
現在、「ちきりや」は、その長い文化の伝統を守り、日本茶を通して古都京都の文化を知ってもらうことに力を注いでいます。
ちきりやの紋
京都における最古の商家の家柄として知られている千切屋一門西村家の遠祖は、奈良時代の藤原淡海公の末裔で、工匠(大工)神人として南都一条院に関係し、春日大社の摂社である「若宮神社」の祭事の時に、興福寺衆徒の供進する千切花の台(千切台)を毎年製作奉納していたと伝えられています。
ちきりやの紋は、この千切台を真上からみたデザインです。四隅を切った四角形(八角)を三つ、俵を積んだように重ね、真ん中の八角形と右下、左下の八角形を、それぞれ二本の棒でつないでいます。
三つの八角形の内側には、橘、藤、松、竹などの花が細かく描かれています。
町内の取り組み
祇園祭・鷹山の復興応援
ちきりや本社のある衣棚町には、かつて鷹山という祇園祭の山がありました。鷹山は文政9年(1826年)巡行時の大風雨によって破損し、その後巡行できず、さらに蛤御門の変(1864年)による大火で、人形三体の首と手を残して焼失してしまいました。残った頭部と手に簡単な衣装を着けて、現在も祇園祭には衣棚町の会所に飾る居祭(いまつり)を続けています。
ちきりやは、公益財団法人鷹山保存会にも属し、令和04年(2022年)の巡行参加に向けて復興を応援しています。